先日この記事「自称、〇〇です。」を書いて、思い出したエピソードがあるので書いていきたいと思います。
(工作好きな長女がパジャマのまま作ってくれた「パソコン」笑。お母さんがパソコンで字書いてるのよく見てますね。かわいいなぁ~^^)
先日こんなふうに書きました。
そういえば中学生の頃、誰に頼まれるでもなく、飽きるまで原稿用紙に推理小説を書き殴っていたことを思い出しました。(←勉強しろよ。笑)
この記憶、脳の奥のほうにしまっていて忘れていたんですよね。
「書くことが好き!」「ライター活動が好き!」ということを再認識するまで、忘れ去っていた記憶です。
原稿用紙に小説を書いていたあの頃は、テストの点数があがるわけでもなく、両親が褒めてくれるわけでもなく(両親には書いていたことすら伝えていませんでした。)、そこに「価値」や「意味」を見出すことができず、しばらく宝物のように保管して、実家を出て一人暮らしするときに捨ててしまったような気がします。
今となっては淡い思い出で、そのときの自分を責めるわけではありませんが、35歳になった今、説教臭く伝えたいことがあるとすれば、
「どうしてあの時、好きなことを仕事に繋げようと思わなかったの?」という問いです。
書くことが好きであれば、小説家や記者になる道もあったのに、なぜ??と。
中学生から高校生になった私は、国語よりも数学のほうが得意という安易な理由で、薦められるがままに理系を選択しました。
文系だったらこんな職業、理系だったらこんな職業、という一覧も見たような気がしますが、最終期限まで悩みに悩んだ挙句、「理系なら潰しがきくから」という短絡的な理由で理系を選択しました。
今振り返ると、ここが一つ目の分岐点でした。^^;
次の分岐点は高校2年生の時。
この頃になると、模試で第三希望の大学まで記入しなければなりませんでした。
なりたい職業が定まらなかった私は、ある出来事から医師を目指すようになるのですが(結局学力が足りなかったのですが^^;)、それまでは、志望校をテキトーに書く、ということをしていました。
で、どうやって志望校を選択していたかというと、「理系の中でおもしろそうな学科を選んでいた」んです。
ここが二つ目の分岐点。^^;
無意識のうちに、「理系学科」の中から選んでいたんですよね。
これ以降は、いわゆる「文系学科」の職業が選択肢にあがることはありませんでした。
大人になった今は、職業選択の上で文系、理系が関係するものは数少ない、とわかります。
もちろん医師などの専門職を目指す場合は理系に進むしか道がありませんが、そもそも「理系だから理系学科」と、自分の道を狭めていたのは自分だったことに気づきました。
とはいえ結局、こうして文系職である(あえてこう書きます)「市職員・事務職」に転職しているということは、今になってやっと、自分の“beの肩書”に合う仕事に就けているのかもしれません。
しかも、公務員ライターとして文系の“2枚目の仕事”もいただくことができ、ライティングスキルなど、本業にも活かせる総合学習の機会を持てていることには、人生って、どこかで帳尻が合ってくるものなのかなぁ、と思います^^
(ハンバーグを作ったら、子ども達が「パーティーみたい!」と喜んでくれました。残り物のシチューで作ったグラタンのおかげかな^^;)
子育てに関して私が子ども達にしてあげていることは多くありませんが、大切にしている想いがあるとすれば、
「自分の好き!を伸ばして、自分の人生を自分の足で歩いて欲しい」ということです。
時代の変革により、これからはなくなっていく職業も多いでしょうし、反対に、これまでなかった職業も生まれてくると思います。
そんな時代を100年も生きていく子ども達に対して私ができることは少ないと思っていて、とにかく、自分の好きなこと得意なことを探して欲しいと思っています。
母が子ども達の人生を歩いてあげることはできないからこそ、時には厳しく、でも根底では信頼しながら接するように心掛けています。
(自分で考えさせるために意地悪な質問もしたりします^^;)
その中で、接し方云々よりもずっと大切だと考えているのが、「母がその姿を見せること」です。
母が実践していないのに子ども達に伝えることはできない、と私は思っています。
子ども達に言う前に、まずは、母自身から。
そのための手段の一つがこのブログなのですが、こうして書きたいときに書かせてくれる家族に、本当に感謝です!^^
お読みいただきありがとうございました。